表現するということ、反面教師から得るもの

ピアノ練習風景

自分の父を見ていて思うこと。勉強が出来る=頭がいいではないということ。

父は公立高校(偏差値も県内で上から指で数える内に入るような進学校)を経て、公立の大学(経済学部)を卒業。しかしながら、臨機応変さ、柔軟性、発想の転換力に乏しく、既成の価値観でしか物事を判断できず、視野も狭い。

毎日食事をしながら程度の低い発言を繰り返す。低俗なゴシップの記事にやたら食い付いつく。『この人、テレビの何を見てるんだ…』と呆れてしまうほどに情報を直線的にしか見ていない。それも節穴だらけ。

ご飯も味わって食べてるようには決して見えない。『それ空気を呑み込んでるでしょ?』と疑問を投げかけたくなるほど、食い意地を張っているように思える。それでいて喉の通りが悪いとか言って結局自分を苦しめている。(それを見てさすがに『馬鹿かお前、自業自得だ』と心の中で思ってしまう。)

1度や2度のことじゃない。全く学習していない。半世紀以上生きてきてそのレベル…改善の余地は極めて少ないと思う。

もちろんそれでも父は家庭のインフラを整備してくれてるし、感謝しなければならない部分は当然あると思う。ただ、その感謝の気持ちが薄れてしまうほど人間的な未熟さが際立っている。

でも自分はここから学ばなければいけないのだと思う。父の人間性や、人としての未熟さを否定するだけでは結局自分は何も成長できていない。毎日父を見て感じることを受け流していたら、気付かないうちに同じような過ちを犯しているかもしれない。

だから自分はこの記事を書く。この教訓を決して忘れないために。

上記で父は低俗なゴシップの記事にやたら食い付くと書きました。人の欠点ばかり追求する人というのは自分に劣等感があり、他者を貶めることでその充足を求めようする悲しい人間の典型だと思う。

父は自分の思考回路や心の変化を観察しようとはおそらくしていない。要するに自分を内観するということをしていないのだ。

少しの発想力があれば自分の感情について考えることが出来ると思う。例えば怒りという感情湧いてきたときに、その怒りがどこからやってきたものなのかに注目する。出来事⇒感情と捉えがちだが、出来事+思考⇒感情だということが見えてくる。

思考と言うのは自分が相手をされなかったという不満であったり、自分に自信がないという不安であったりと様々だ。そこが見えてこれば、自分の感情をコントロールする、安定化させることは可能だと思う。

父は野球を見ていてもたいてい愚痴しかこぼしていない。ミスしても頑張ってプレーしてる選手に向かって平気で野次と言う名の暴言を飛ばす。

極めつけはフィギュアスケートの一件。父は演技と言うものをまるで見ていない。

着眼点は転ぶか転ばないか。転倒した場面でしつこいくらい『駄目だ』を連呼する。そしてその時自分は父を観察してみた、彼はジャンプのシーンにしかテレビに目を向けていなかった。ジャンプ以外の演技をまるで見ていない。

選手は例え失敗(失敗はつきもの)しても、舞台に立つまでにものすごい努力をしてきた。それに舞台に立って演技するということは限られた人間ができることで、それ自体がすごいこと。数分間の演技の中で何をどういう風に表現するのかを必死に考えて、膨大な時間を練習に費やす。

自分はピアノを始めて、実際にステージに立つことで表現することの凄みを痛感した。表現するということ、それは自分を見つめすことから始まり、決して妥協の出来ないものだ。

だから演技を見ようともしない人が転倒のシーンだけ見て心無い野次を飛ばすこと…本当に情けないと思う。そういうことを平気でする人の人格を疑う。

父の頭の中では成功か失敗かの二極でしか物事を推し量れない。結論から言えばそんな人にスポーツマンシップのかけらもないし、スポーツを見る資格はないと思う。

自分はこの記事を書くことにとても意義を感じている。同時に情熱のようなものも。これは自分の独自の表現であり、こういうものに自分の人生を費やしたいと思う。今回は記事と言う形の表現手法ではあるが、今後は音楽、ファッション、生き方でも表現出来るようになりたい。

今回父を引き合いに色々と書きましたが、彼の人間性を完全に否定するつもりはありません。人間には弱い部分がある、当然それは自分にもあるから。

お母さんが自分に教えてくれた大切な言葉があります。
『どんな人にも逃げ道を与えてあげなさい。』

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